ソウル・フラワー・ユニオンがミニ・アルバム『キセキの渚』を12月21日にリリースした。震災があり、2011年を自分たちなりにまとめたものを年内に出すことは、ひとつの目標だったそう。
今作には、被災地・東北での出逢い・再生を歌い込んだ新曲<キセキの渚><ホモサピエンスはつらいよ><いちばんぼし>をはじめ、「ソウル・フラワー・みちのく旅団」の被災地出前ライブで演奏された<おいらの船は300とん><斎太郎節><郡上節(春駒〜八竹)>など、ミニ・アルバムと言いつつ全10曲が収録された作品になっている。このアルバムで伝えられているメッセージを受け取って欲しい。
本誌7月号に続き、今回も中川敬にお話を伺った。(interview:上野祥法/ロフトプロジェクト)
東北での出会いを曲にした
── ミニアルバム『キセキの渚』が発売されますが、遡ると2010年の12月に『キャンプ・パンゲア』をリリース、そして中川敬個人名義で6月に『街道筋の着地しないブルース』を発表しましたが、こんなに早いスパンでアルバムを出すということはこれまであったんですか?
中川:まあ、他に俳優業とかあれば、ここまで出すことは出来なかったけど、残念ながらそういうオファーも無かったし…。
── (笑)このアルバムを年内に出す意図はなにかあったんですか?
中川:愚問!(笑)。それは当然、東日本大震災。『街道筋の着地しないブルース』を出して、ソウル・フラワー・ユニオンとして2011年を自分らなりにまとめたものを年内に出したいな、という。2012年3月のツアーのあたりがちょうど製作期間も含めて妥当かなとも思ってんけど、やっぱり2011年のうちに出したいという気持ちが強かったね。アルバムを作ると決めたのは、夏頃やねんけど。
── では早速ですが新曲<キセキの渚>が出来たきっかけと経緯を教えてください。
中川:3月頃は『街道筋の着地しないブルース』の制作中で、被災地に早く入らなきゃという気持ちもありながら、関西に住んでることもあって、なかなか東北へ行くことが出来なくて…。で、『街道筋の着地しないブルース』の録音も終わりに近付いて、ようやく4月後半に自分のポンコツ車で石巻に入って…。石巻の保育所に支援物資を届けたあと、女川町に行ってんけど、当時は三階建ての建物の上に車が転がってるとか、そんな光景が広範囲に広がってて、正直、着いたとき、全く言葉が出なかったな…。1時間くらい、一面津波でやられた町を歩いてたんやけど、やっぱり音楽やってる人間やから、「瓦礫」の中からCDプレイヤーとか、LP盤とか、音楽関係のものに目が行くんよね。そこから“生活”というものが胸に迫ってきて、なんとも言えない気持ちで立ちすくんでた。
そんな中、女川港の波止場のところで、でっかい「瓦礫」の下にターンテーブルが見えて、なんとなくそれを写真に撮ってツイッターにあげたんよね。そしたら後日、「これは俺のかもしれない」っていう声があがって。それが女川町の“蒲鉾本舗高政”の三代目・高橋正樹くんやった。そこから物語が始まるんやけど、まずビックリしたのは高橋くんがソウル・フラワーのファンやったという…。ツイッターのDMや電話でやり取りをしてる中で、彼が大学生の頃に阪神淡路大震災のボランティアとして神戸に入ってて、ソウル・フラワー・モノノケ・サミットの機材を運んだことがあるということまで判明して…。
──あれには驚きましたね。そのあと僕も高橋くんと連絡を取り合って、その中で、ソウル・フラワーのメンバーに女川町に演奏に来てもらうことになりました。
中川:初訪問から3週間後、被災地の避難所で演奏しようっていうことになって。5月の中頃。その時は、リクオと克ちゃん(高木克)と3人で、ソウル・フラワー・アコースティック・パルチザンの形態で。避難所になってた女川総合体育館で出前ライブをやるのもこの時やね。
その頃、高橋くんは自分の会社のみならず女川の復興のために朝から晩まで動いてて、見つけたターンテーブルを引き上げることが出来てなかったんよね。彼の仕事が終わる時間には、その場所、冠水してたから。
で、俺らが演奏しに女川の総合体育館に向かう途中、ターンテーブルが「瓦礫」に埋もれてるところが見えて、「今や!」と思って、女川総合体育館に到着していきなり、準備をしてる高橋くんに「ちょっと、車に乗って」って。行ったら、もう冠水が始まってて、はじめは高橋くんも「まあ、明日にでも取りに来ます」なんて言っててんけど、いきなり、冠水してる水の中に走って入っていって。一人にしてあげたいなと思ったから、俺らは30mくらい離れたところで見ててんけど。ターンテーブルを抱きしめて戻ってきて、その時の第一声が「これは一生の宝物です」って。そこで「宝物」っていうフレーズが俺の中に残ってんね。これが今回の<キセキの渚>の歌詞に繋がる。彼は、今回の震災で、家も、親族も亡くして、音楽関係のものも家財も、何もかも全て流されて…。そんな中、あのターンテーブルが出てきたということやね。この曲の成り立ちは、この話がまずあった。
── その大きなきっかけを曲に落とし込もうと思ったのは?
中川:9月上旬にレコーディングしようっていうことだけは7月に決まっててね、2曲新曲を書こうと思ってて。アコースティック・アルバム(『街道筋の着地しないブルース』)を作ったところやったから、その反動もあってか、無性にロックンロールがやりたくなって。で、その数ヶ月のあらゆる光景が頭をよぎったんよね。4月5月6月と、東北で忘れ難いいろんな出会いがあって、そこから産まれた曲やね。
あと、東北に行き始めて、避難所のライヴで、ニューエスト・モデル時代のファンと会うことが多くてね。このことは俺の曲作りにちょっと影響したと思う。別に「ニューエスト・モデルみたいな曲を」とかいうようなことでは全然ないけど、「ニューエスト・モデル」っていうキーワードは浮上してたな、俺の中で。『仙台ロックンロールオリンピック』っていうフェスが80年代後半から90年代前半にあって、数年連続でニューエスト・モデルもメスカリン・ドライヴも出演してて。あの頃の東北では相当でかいイベントで、TVでも放映してたらしい。だから、女川でも南三陸でも気仙沼でも、ツイッターで情報を知って、避難所のライヴに来てくれたんよね。「まさかこの状況で中川さんと再会するとは思いませんでした」って。だから、<キセキの渚>を書く時に、「ニューエスト・モデル」というのはあったな、キーワードとして。ターンテーブルのことが入り口になってるけど、東北の地で出会った、不屈の精神で闘ってる連中に捧げるようなロックンロールが書きたいと思ったんよね。
